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はじめに:悩みが「ない」ことへの違和感
患者さんからよく聞く言葉があります。
「特に悩みはないと思うんですけど、最近しんどくて」
「つらいと感じるほどではないので、受診するほどではないと思っていました」
こうした言葉の背景に、「感情のフタ」が隠れているケースが少なくありません。
仕事や育児、介護、家族の事情などに追われ、立ち止まる余裕がなくなると、自分の感情に気づく力が少しずつ弱まっていきます。
この状態を放置すると、ある日突然、心身のバランスが大きく崩れ、うつ病や適応障害、パニック障害、自律神経失調症といった形で表面化する危険もあります。
そこで、医師として多くの方を診てきた経験から、「悩みがない」と感じている方ほど注意してほしいポイントをまとめていきたいと思います。
「感情のフタ」とは何か
感情のフタが起こる背景
感情のフタとは、本来感じているはずの不安、怒り、悲しみ、寂しさといった感情に、無意識のうちにフタをしてしまう心の働きです。
よくある背景として次のようなものがあります。
- 小さい頃から「泣くんじゃない」「我慢しなさい」と言われ続けた
- 家族の中で自分がしっかり者役を担ってきた
- 責任感が強く、弱音を吐く習慣がない
- 職場文化的に「愚痴や悩みは言うべきでない」という雰囲気がある
- 失敗や迷惑を極端に避けようとする完璧主義
感情を抑えることは、生き延びるための「適応戦略」として働くため、短期的には役に立つ側面もあります。
ところが長期的には、心と体に大きな負担をかけてしまうことが多いかもしれません。
自覚が難しい理由
感情のフタのやっかいな点は、本人が気づきにくい点にあります。
- 「悩んでいないから大丈夫」と考えてしまう
- 常に忙しく、立ち止まって自分の心と向き合う時間がない
- 周囲から「しっかりしている」と評価されることで、自分もそう思い込んでいく
こうした要素が重なり、実は「悩みを感じられない状態」へと変わってしまっている可能性があります。
自分でできる「感情のフタ」セルフチェック
以下のセルフチェックは、診療内科やカウンセリングでよく使う視点を、日常用にアレンジしたものです。
当てはまる項目が多いほど、感情のフタが強く働いている可能性があります。
セルフチェック項目
- 具体的な「悩み」は思いつかないのに、いつも疲れている
- 休日になっても、心からリラックスした感覚が少ない
- 何が楽しいのか、よく分からなくなってきた
- 悲しい出来事があっても、涙が出ない
- 人から「頑張りすぎ」と言われることが多い
- 自分のことを後回しにしがち
- 他人を優先するのが当たり前になっている
- 嫌なことがあっても「たいしたことない」とすぐに打ち消す
- 気づいたら深いため息をついている
- イライラや焦りを感じても、「このくらい普通」と流してしまう
- 心の悩みというより、肩こり、頭痛、胃痛、動悸など体の症状として出やすい
- 「弱音を吐く自分」が許せないと感じる
- 誰かに相談したいのに、言葉がうまく出てこない
- 「悩んでいる」と認めると、崩れてしまいそうで怖い
5個以上当てはまる方は、心がかなり頑張っている状態と考えられます。
7〜8個以上当てはまる場合、心療内科や精神科、カウンセリングで一度相談してみる価値があります。
「悩みがない人」が抱えやすい心身の症状
悩みを自覚していなくても、体は正直にサインを出しています。
感情のフタが続いた結果、心身に起こりやすい症状を挙げてみます。
- 寝つきが悪い、夜中に何度も目が覚める
- 朝起きたときに強い疲労感があり、仕事に行きたくない
- 頭痛、肩こり、首のこりが慢性的に続く
- 胃の不快感、食欲不振、逆に過食気味になる
- 動悸や息苦しさ、胸の圧迫感
- 些細なことで涙が出てくる、または全く泣けない
- ミスが増える、集中力が持続しない
- 人と会うのがおっくうになる
- 急に不安感や恐怖感が襲ってくる(パニック発作のような症状)
これらは、うつ病、適応障害、不安障害、パニック障害、自律神経失調症などにつながることもあります。
「こんな症状で受診していいのか」と戸惑う方も多いが、心療内科は、まさにこうした「グレーゾーン」の段階でこそ力になれる診療科です。
体験談:悩みがないはずだったAさんのケース
個人が特定されないように内容を一部変えた実際のケースを紹介させていただきます。
Aさん(30代前半・女性・会社員)の場合
Aさんは事務職として働く会社員。
受診のきっかけは、数か月続く頭痛と疲労感でした。
最初は内科や整形外科を受診したが、検査に異常がなく、最終的に心療内科に紹介されました。
初診で問診をしたとき、Aさんはこう言った。
「特に悩みがないので、心の問題ではないと思うんです」
「仕事もそれなりに楽しいし、上司も同僚もいい人です」
詳しく話を聞いていくと、次のような背景が見えてきました。
- 両親共働きで、小学生の頃から弟の面倒をよく見ていた
- 家庭の中で、自然と「しっかり者」の役割を担ってきた
- 社会人になってからも、仕事を完璧にこなそうと努力を続けてきた
- 残業が続いても、「みんな忙しいから」と自分を納得させていた
- 自分の気持ちを言葉にする習慣があまりない
問診の途中で、「仕事でつらかったこと」や「本当は嫌だったこと」を少しずつ話してもらうと、Aさんの目にはうっすらと涙が浮かびました。
Aさんは驚いた表情で言いいました。
「つらかったはずですけど、自分では大丈夫だと思っていました」
「話しているうちに、抑えてきたものがあったのだと気づきました」
治療は、軽い抗不安薬と睡眠調整薬の処方に加え、定期的なカウンセリングと仕事の負荷調整を提案させていただきました。
数か月かけて、自分の感情や限界を少しずつ言葉にできるようになった頃には、頭痛や疲労感はかなり軽くなっていきました。
Aさんのように、「悩みがない」と口にする方ほど、深いところで感情のフタが働いていることがあります。
Q&A:よくある疑問に医師の立場から答える
Q1. 悩みがない程度で心療内科に行ってもいいか
問題ありません。むしろ「悩みとして明確に言えない段階」で相談することは、とても有効な予防的アクションです。
心療内科では、はっきりした病名がついていなくても、「なんとなくしんどい」「説明しづらいけれどつらい」といった相談こそ歓迎しています。
Q2. どのタイミングで受診を考えるべきか
例えば次のような状態が2週間以上続く場合、一度相談されてください。
- 睡眠の質の低下
- 食欲の変化(増えすぎ、減りすぎ)
- 朝起きるのが極端につらい
- 趣味や楽しみへの興味が薄れている
- 理由もなく涙が出る、または感情が平板になっている
- 動悸、息苦しさ、胃腸の不調が繰り返し出る
「仕事や家事に支障が出始めたかどうか」が一つの目安になります。
Q3. 抗うつ薬や睡眠薬が怖い
薬に不安を感じる方は少なくありません。
心療内科では、薬だけに頼りすぎず、生活習慣の見直しや心理療法、カウンセリングを組み合わせることが一般的です。
薬を使う場合でも、
- 必要最小限の量から開始する
- 効果と副作用を丁寧に確認しながら調整する
- 依存性の低い薬を選ぶよう配慮する
といった工夫をしております。
薬を飲むかどうかは、医師の説明に納得したうえで、相談して決めていくことができます。
Q4. カウンセリングで何を話せばいいか分からない
「何を話していいか分からない」からこそ、カウンセリングが役に立ちます。
最初から上手に話す必要はありません。カウンセラーは話を引き出すプロフェッショナルだからです。
- 最近の生活リズム
- 職場や家庭の状況
- 子どもの頃のこと
- 気になっている体の症状
こうした話題を手がかりに、感情のフタの存在を一緒に見つめていきます。
なぜ「悩みの言語化」が大切か
感情は、言葉として外に出た瞬間、少しずつ整理されていきます。
これを心理学では「言語化による自己理解の深化」と説明することがあります。
- モヤモヤしていたものに名前がつく
- 自分が何に傷ついていたのかが見えてくる
- 本当に大切にしたい価値観が分かる
こうしたプロセスを通して、心のエネルギーは回復し始めるのです。
悩みを話すことは、弱さではなく、「自分を大切にする力」の一つです。
心療内科・診療内科やカウンセリングを勧めたい方
次のような方には、専門家への相談を積極的に勧めております。
- いつも「なんとかなる」と自分をなだめてしまう
- 仕事や家族の悩みを、誰にも本音で話せていない
- 体の不調が続いているのに、検査で異常が見つからない
- 自分の感情がよく分からなくなっている
- 人から「もっと頼ればいいのに」と言われる
受診という選択は勇気のいる行動だが、その一歩が人生の軸を整える大きなきっかけになることが多いです。
受診や相談の前にできる簡単セルフケア
心療内科受診やカウンセリングと並行して試してほしいセルフケアをご紹介いたします。
1. 1日3分の「感情メモ」
寝る前に、スマートフォンやノートに次の3点を書き出します。
- 今日一番疲れたこと
- 今日一番うれしかったこと
- 今日、誰にも言わなかった本音
これを続けると、感情にフタをしていた部分が少しずつ見えやすくなることがあります。
2. 体の感覚に意識を向ける
感情に気づきづらい方は、「体のサイン」から心の状態を知るほうが理解しやすいことが多いです。
- 肩の力が入っているか
- 呼吸が浅くなっていないか
- 顎を強く噛みしめていないか
日中ふと気づいたときに深呼吸をして、体の力を抜く習慣をつくるのもよい方法です。
医師からのメッセージ
悩みがない、つらいと言えるほどではない、まだ頑張れる。
そんなふうに自分を説得しながら、何年も無理を続けてきた方にたくさん出会ってきました。
心は、壊れる前に必ずサインを出しています。
それが、眠れない、食欲が落ちる、頭痛が増える、朝起きるのが極端にしんどいといった形で現れてくるのです。
「悩みがないから受診するほどではない」と感じる方ほど、実際には限界に近づいていることが少なくありません。
どんなに小さく見えるサインでも、その違和感に気づいたあなた自身の感性を大切にしてほしいと思います。
心療内科、カウンセリングは、自分の心と体を大切にしようとする人が、少しだけ専門家の力を借りる場所です。
ため込んできたものを言葉にし、感情のフタを少しずつ外していく過程を、医師として丁寧に伴走したいと思っています。
一人で抱え込まず、どうか早めにご相談ください。

