
目次
はじめに:終わらない「π」と、終わらない悩み
数学の授業で一度は見たことのある3.141592…
途中でピタッと止まらず、どこまでいっても続いていく「割り切れない数」です。
心療内科で多くの患者さんとお会いしていると、
「先生、いつになったら完全に治りますか?」
「昔みたいに100%元気に戻りたいんです」
と聞かれることがよくあります。
そのたびに、私はπのことを思い出します。
心も、人生も、「完全に割り切れる」ことを前提にすると、とても苦しくなります。
でも、「割り切れないまま続いていくもの」として受け止めると、不思議と少し楽になることがあります。
この記事では、心療内科医としての経験を交えながら、
「完璧を目指しすぎて苦しくなっている方」
「うつ病や不安障害で、自分を責めてしまう方」
に向けて、ゆっくりお話ししていきます。
「π」はなぜ終わらないのか —— それでも世界は成り立っている
πは、円周と直径の比です。
円という、とても身近な形の中に、「無限に続く小数」が隠れています。
興味深いのは、「最後まで計算できない」のに、
・建築
・宇宙開発
・コンピューター
など、あらゆる分野でπが普通に使われていることです。
「完全にわからないと、使ってはいけない」
「全部理解できないと、価値がない」
—— そんなことは、誰も言いません。
私たちの心の不調も同じです。
・うつ病の原因を、100%特定できることはありません。
・不安障害の仕組みも、まだ研究途中の部分があります。
・適応障害やパニック障害も、「ここからここまで」と線を引けるわけではありません。
それでも、治療はできます。生活は整えられます。人生は続きます。
「全部わからないとダメ」ではないのです。
心の不調と「割り切れない自分」
完璧主義が、心療内科に人を連れてくる
診察室でよく出会うのは、とてもまじめで、責任感の強い方たちです。
- 仕事で100点を目指してしまう
- 家事・育児を「ちゃんとやらなきゃ」と自分を追い込む
- 休むことに罪悪感がある
- 「みんなできているのに、自分だけできない」と感じてしまう
こうした完璧主義は、一見「長所」に見えます。
しかし、ストレス・睡眠不足・過労・人間関係の負担が重なると、
・うつ病
・適応障害
・不安障害
・自律神経失調症
といった形で、心と体が悲鳴をあげることがあります。
数字では測れない「しんどさ」
うつ病や不安障害の診断には、DSM-5などの基準がありますが、
そこに書かれている項目で、人のつらさを「完全に」説明することはできません。
- 夜、布団に入っても頭の中で仕事のことがグルグル回る
- 朝、身体が鉛のように重くて起き上がれない
- ミスが怖くて、メールを送るだけで心臓がバクバクする
- 電車に乗ろうとすると、急に息苦しくなる
こうした感覚は、人によって微妙に違い、「教科書通り」には割り切れません。
まさに、πのように「続いていく小数」のようです。
体験談:πみたいな自分を許せなかったAさんの場合
(個人が特定されないよう配慮した、複数の事例をもとにしたフィクションです)
Aさんのプロフィール
- 30代前半・女性・会社員
- 仕事は経理。数字に強く、責任感がとても強い
- 周囲からは「頼れる人」として期待されてきた
「ちゃんとしなきゃ」が止まらなくなった
決算期が近づくと、残業が増え、睡眠時間は4〜5時間。
それでもAさんは、「他の人も頑張っているし」と自分を追い込み続けました。
やがて、こんな症状が出てきました。
- 朝、起きると涙が出てくる
- 休日も仕事のことが頭から離れない
- ミスが怖くて、確認に何時間もかけてしまう
- 電車に乗ると、急に動悸が強くなる
ある朝、布団から本当に起き上がれなくなり、
上司に連絡することさえできず、そのまま丸一日、天井を見つめていたそうです。
「割り切れない自分」を認めるまで
家族の勧めで心療内科を受診したAさんは、
「こんなことで来て、すみません」と何度も口にしました。
診察の中で、私はこんなお話をしました。
「Aさん、πって知っていますか? 3.14…って続いていく、あの数字です」
「はい、学生の頃に習いました。無限に続くんですよね」
「そうです。あれ、最後までわからなくても、世界中の建物や機械の計算に使われています。
完璧じゃなくても、『十分役に立つ』ことがあるんです。
Aさんも、『100点の自分』じゃなくていい。
70点でも、50点でも、生きていていいんです」
Aさんはしばらく黙ってから、「そんなふうに考えたこと、なかったです」とおっしゃいました。
治療のプロセス
Aさんには、
- うつ病・不安障害に準じた状態であること
- 過労・睡眠不足・職場ストレスが大きな原因であること
- 「性格が悪い」のではなく、「環境と心身の負荷」の問題であること
をお伝えした上で、
- 抗うつ薬を少量から開始
- 不安が強い場面向けに頓服薬を処方
- 休職の相談と必要書類の作成
- 認知行動療法的なカウンセリング
- 睡眠衛生(寝る前のスマホ制限・光とカフェインの調整など)の指導
を組み合わせていきました。
Aさんは最初、「薬に頼るのは負けだ」と感じていました。
しかし、「風邪で解熱剤を使うのと同じ。心の炎症がひどいときには、一時的に薬の力を借りてもいい」という説明に、少しずつ納得されました。
数か月後、Aさんはこう話してくれました。
「100点じゃなくても、『今日は30点くらいかな。でもゼロじゃないな』と
思えるようになりました。πみたいに、割り切れない自分でも
生きていていい気がしてきました」
心療内科・カウンセリングに行く目安
こんなサインがあったら、一度相談を
以下のような症状が「2週間以上」続く場合、心療内科やメンタルクリニックへの受診をおすすめします。
- 朝、起きるのがつらい・布団から出られない
- 今まで楽しかったことが、楽しく感じられない
- 食欲が極端に落ちた、または過食が止まらない
- 眠れない/何度も夜中に目が覚める
- 動悸・息苦しさ・めまい・頭痛・腹痛が続く(検査で異常なしと言われた)
- 「消えてしまいたい」「いなくなりたい」と思うことがある
- 仕事・学校に行こうとすると、強い不安や吐き気が出てくる
これらは、うつ病・適応障害・不安障害・パニック障害・自律神経失調症などでよく見られる症状です。
「まだ大丈夫」「自分は甘えているだけだ」と我慢し続けるほど、回復に時間がかかることがあります。
心療内科では何をするのか
心療内科・精神科・メンタルクリニックでは、
- 現在の症状の聞き取り
- 生活環境(仕事・家庭・人間関係)の確認
- 必要に応じて心理検査
- 病気の可能性や、今の状態の説明
- 薬物療法(必要な場合のみ)
- カウンセリングや心理療法の案内
- 休職・復職支援、学校との連携
などを行います。
すべてを1回で終わらせる必要はありません。
πの計算と同じで、「少しずつ明らかにしていく」プロセスでも大丈夫です。
Q&A:心療内科やカウンセリングについて、よくある疑問
Q1. 「こんなことで受診していいのかな」と思ってしまいます
A. その「こんなことで」が、実はとても大事なサインです。
心療内科は、「うつ病が確定している人だけ」が行く場所ではありません。
- 眠れない日が続く
- 食欲がない/食べすぎてしまう
- 動悸や不安発作が増えた
- 仕事に行く前に涙が出てくる
こうした「まだギリギリ頑張れているけれど、しんどい」状態で相談していただくほうが、回復が早いことが多いです。
Q2. 薬は一度飲み始めたら一生やめられませんか?
A. いいえ。そのようなことは基本的にはありません。
うつ病や不安障害の薬(抗うつ薬・抗不安薬など)は、多くの場合、
- 症状が強い時期の「つらさを和らげる手段」として使う
- 良くなってきたら、医師と相談しながら少しずつ減らす
- 状態をみながら、最終的には中止する
という流れをとります。
高血圧や糖尿病でも、薬と生活習慣の両方から整えていくように、
メンタルの薬も、「体と心のバランスを整えるための一時的なサポート」と考えてください。
Q3. カウンセリングって、ただ話を聞いてもらうだけですか?
A. 「ただ話を聞いてもらう」ことも、とても大きな意味があります。
さらに、認知行動療法(CBT)などのエビデンスに基づいた心理療法では、
- 自分を苦しめている「考え方のクセ」を一緒に見つける
- 不安や落ち込みに対する対処法を練習する
- 行動パターンを少しずつ変えていく
といった「具体的な技術」を身につけていきます。
たとえば、
「失敗したら、すべて終わりだ」という極端な考え方を、
「失敗しても、やり直せることもある」に少しずつ修正していく。
これも、「割り切れない心」に寄り添いながら整えていく作業です。
Q4. 家族や職場には、どこまで話したらいいですか?
A. これも「割り切れない」問題のひとつです。
すべてを正直に話す必要もないし、全部を隠す必要もありません。
- 信頼できる人にだけ、少しずつ話す
- 医師から「診断書」や「配慮のお願い」を書いてもらう
- カウンセラーと一緒に、伝え方の練習をする
といった方法があります。
「正解は1つだけではない」という前提で、一緒に考えていきましょう。
「完璧じゃないからこそ、世界は続く」
πがもし、きっちり「3.14」で終わる数字だったら——
数学は、物理学は、工学は、今とは少し違っていたかもしれません。
私たち一人ひとりも、もし「100点で、欠点がひとつもない存在」だったら、
・助け合う必要もなく
・相談する必要もなく
・誰かに寄りかかることもなく
生きていけるかもしれません。
でも、そんな世界は、きっと今よりずっと冷たくて、味気ないものになるでしょう。
- うまくいかない日があるからこそ、人にやさしくなれる
- 弱さがあるからこそ、助け合いが生まれる
- 割り切れないからこそ、対話が生まれる
「完全じゃないからこそ、世界は続いていく」。
心療内科医として、私はそう感じています。
心療内科やカウンセリングを迷っているあなたへ
もし今、あなたが
- 朝起きるのがつらい
- 仕事や学校に行く前に、胸がざわざわする
- 眠れない夜が続いている
- 「消えてしまいたい」とふと思う
そんな状態で、この文章をここまで読んでくださっているなら、
それはもう、受診していいサインだと私は思います。
心療内科やメンタルクリニックに行くことは、「負け」ではありません。
πのように、割り切れない自分を、少しだけ整えるための、一つの方法です。
医師からのメッセージ
最後に、心療内科医としてお伝えしたいことがあります。
- 「がんばりすぎた結果として、心が疲れてしまう」ことは、誰にでも起こりえます。
- それは、性格の弱さでも、甘えでもありません。
- うつ病も不安障害も適応障害も、自律神経の乱れも、「治療できる病気」です。
あなたは、πのように、どこまでも続いていく物語をもった存在です。
きれいに割り切れない日々でも、そこには「生きていていい理由」が、無数に散りばめられています。
一人で抱え込まず、いつでも医療機関や専門家を頼ってください。
それは、弱さではなく、「生きていこうとする強さ」の一つの形です。

