
目次
定年後に落ち込みやすいのは甘えではない
外来でよく聞く言葉に、もう働かなくていいはずなのに気持ちが沈む、自分が弱くなった気がする、という訴えがあります。けれど、定年退職は人生の大きな環境変化です。心と体は、変化に適応するだけでエネルギーを使います。 特に、仕事が生きがい、評価の軸、人間関係の中心だった人ほど、退職後の喪失感は強くなりやすいです。これは性格の問題ではなく、構造の問題です。
仕事一筋だった人ほど起きやすい7つの変化
役割喪失 名刺がなくなる痛み 仕事一筋の人は、部長、課長、責任者などの役割そのものが自己像になっています。退職で肩書が消えると、自分は誰か、何の役に立てるかが急にぼやけます。これはアイデンティティの揺らぎで、落ち込みの大きな引き金になります。
時間の構造が消える 生活リズムが崩れる 出勤がなくなると、起床、食事、外出のリズムが一気に緩みます。すると睡眠が浅くなる、昼夜逆転、活動量の低下が起こりやすく、抑うつ気分や不安を増やします。心療内科では、睡眠の質と生活リズムは最優先で確認します。
社会的つながりの急減 孤立が進む 職場は、意識しなくても人と会える場でした。退職後は、こちらから予定を作らない限り、会話の機会が極端に減ります。孤立は、うつ病のリスク要因として医学的にも知られています。
評価される場がなくなる 自己肯定感が下がる 達成、成果、評価が日常から消えると、自己肯定感が下がりやすくなります。特に完璧主義、責任感が強い、他者基準で頑張ってきた人ほど、空白がつらく感じやすいです。
体力の変化が見える 老いの実感が気分を下げる 退職後に時間ができると、体の痛みや疲労に意識が向きやすくなります。更年期以降のホルモン変化、持病、運動不足も重なると、気分の落ち込みやすさが増します。心療内科では身体症状とメンタルをセットで見ます。
夫婦関係や家庭内の摩擦が増える 在宅時間が増えることで、生活動線や家事分担、過干渉などの問題が表面化することがあります。退職後の夫婦関係ストレスは、うつや不安の増悪因子になりえます。
長年の緊張がほどける反動 燃え尽きが出る 現役時代にストレスを自覚しないまま走り続け、退職後に反動として無気力や抑うつが出る人がいます。いわゆる燃え尽きに近い状態で、休息だけでは戻りにくいことがあります。
こんな症状は要注意
定年後うつと適応障害のサイン
退職後に一時的に気分が落ちるのは珍しくありません。ただ、次のサインが2週間以上続く場合は、うつ病や適応障害などを含めて専門家に相談する目安になります。
気分と意欲 :ほとんど毎日、気分が沈む ・以前好きだったことが楽しくない ・やる気が出ない、身支度が億劫 ・焦りやイライラが増える
睡眠 :寝つけない ・夜中や早朝に目が覚める ・寝ても疲れが取れない
体と自律神経 :食欲低下、体重変化 ・動悸、息苦しさ、胃の不快感 ・頭痛、肩こりが増える
考え方 :自分には価値がないと感じる ・将来が真っ暗に思える ・死にたい気持ちがよぎる
大切な注意 死にたい気持ちが強い、具体的に考えてしまう場合は、早めに入院可能な医療機関、地域の相談窓口へつながってください。緊急性が高いサインです。
体験談
退職後に無気力になったAさんの回復まで これは外来でよくある経過を、個人が特定されないよう要素を組み替えた例です。
Aさん 65歳 男性
管理職として長年勤務 退職後、最初の1か月は解放感がありました。ところが2か月目から、朝起きられない、散歩も面倒、テレビを見ても内容が入らない状態に。夜は眠れず、早朝に目が覚めて不安が強くなる。食欲も落ち、体重が減りました。 Aさんは、こんなことで受診していいのかと迷い続け、3か月ほど我慢して来院。診察では、役割喪失による抑うつと不眠、自律神経症状が目立ちました。
治療と支援 :睡眠を整えるための生活指導と必要最小限の薬物療法 ・カウンセリングで、仕事中心の価値観を否定せずに棚卸しをしました。行動活性化として、毎朝の散歩を5分から再開し、週1回の地域ボランティア見学から社会的つながりを復活させました 。夫婦で、在宅時間のルールと家事分担を話し合いするなどの機会をもうけました。
2か月後、Aさんは眠りが改善し、午前中の活動が戻りました。半年後には、週2回の地域活動と趣味の会に通い、気分の落ち込みは大きく軽減。Aさんが印象的に話していたのは、仕事を失ったのではなく、仕事以外の自分を育て直している感覚が出てきた、という言葉でした。
今日からできるセルフケア
行動活性化と生活リズム 定年後うつや退職後の落ち込みは、気合いで治すより、行動と環境を小さく整えるほうが回復が早いことが多いです。
まず睡眠 起床時刻を固定する 眠れないときほど大切なのは、起床時刻を毎日そろえることです。昼寝はするなら20分以内、15時以降は避ける。朝は光を浴びて体内時計を整えます。不眠は抑うつと相互に悪化しやすいので、ここが土台になります。
行動活性化 気分の変化を待たずにまずは小さく動くことから始めます。気分が上がってから動くのではなく、動くことで気分を少しずつ上げるのが行動活性化です。 例 )玄関まで行く ・近所を5分だけ歩く ・コンビニで買い物 ・図書館に行って座るだけなど。達成できたら、できた事実をメモします。自己評価の回復に効きます。
週の予定を見える化する 退職後は、予定がないこと自体がストレスになります。 月水金は午前に外出 ・火は通院やカウンセリング ・木は趣味 ・土は家族時間 というように、予定を固定化すると心が安定しやすいです。
つながりは弱く広くでよい 親友がいないとだめ、ではありません。挨拶する人、会釈する人、月1回話す人でも十分に効果があります。地域サークル、学び直し講座、スポーツジム、ボランティアなど、ゆるい所属やつながりが孤立を防ぎます。
お酒で寝ない アルコールは寝つきを良くしても睡眠の質を下げ、早朝覚醒を増やしやすいです。不眠と抑うつがある時期は特に要注意です。
心療内科とカウンセリングでできること
治療の選択肢 心療内科やメンタルクリニックは、重症な人だけが行く場所ではありません。退職という生活イベントで心身が崩れたときは、早めに整えるために受診してもよい場所です。
診察で確認すること 症状の経過と重症度 ・睡眠、食欲、体重、活動量 ・不安、焦燥、パニック症状の有無 ・身体疾患や服薬の影響 ・希死念慮の有無 必要に応じて、うつ病、適応障害、不安障害、睡眠障害、身体表現性症状などを鑑別します。
カウンセリングで扱うテーマ 役割喪失と自己価値の再構築 ・仕事中心の思考パターンの見直し ・夫婦関係や家族との距離感 ・セカンドキャリアや社会参加の設計 認知行動療法(CBT)や支持的精神療法は、定年後の落ち込みと相性が良いことが多いです。
薬は悪ではなく道具 不眠が強い、食欲が落ちて体重が減る、日中動けない、という状態では、薬物療法が回復の足場になることがあります。目標は、薬で人生を変えることではなく、生活を整える力を取り戻すことです。副作用や中止の計画も含め、主治医と相談しながら進めます。
受診の目安 ・落ち込みや不眠が2週間以上続く ・趣味や外出がほぼできない ・体重が減る、動悸や胃腸症状が強い ・家族から見て明らかに様子が違う ・死にたい気持ちが出てきた このどれかがあれば、我慢より相談が優先です。
家族ができるサポート
声かけのコツ 避けたい言い方 「暇なんだから元気出して 」「気の持ちよう」「働かないとダメになる」などの声掛けはやめてみましょう。
役に立つ言い方 「最近しんどそうに見えるけど、睡眠はどう?」「一度、心療内科やカウンセリングで相談してみない?」「散歩だけ一緒に行こう。5分でいいよ」などです。ポイントは、説教や批判ではなく具体的な手伝いを申し出ることです。予約を一緒に取る、受診に付き添う、生活リズムを一緒に整えるなどが効果的です。
よくある質問Q&A
Q1 定年後に気分が沈むのは普通ですか
A 一時的な喪失感は珍しくありません。ただ、眠れない、食べられない、何も楽しめない状態が続くなら、うつ病や適応障害の可能性もあるため早めに相談が安心です。
Q2 定年後うつと、ただの疲れの違いは何ですか
A 目安は持続期間と生活への影響です。疲れは休むと回復しやすい一方、うつ状態は休んでも回復しにくく、睡眠や食欲、思考にも影響が広がります。
Q3 心療内科と精神科、どちらに行けばいいですか
A 診療所では基本的にどちらでも構いません。大学病院などで科が分かれている場合は、動悸や胃腸症状など身体症状が強いなら心療内科、気分の落ち込みや不安が中心でも精神科で対応可能です。
Q4 カウンセリングは何を話せばいいですか
A うまく話そうとしなくて大丈夫です。眠れない、やる気が出ない、退職してから苦しい、その事実から始めれば十分です。回復の糸口を一緒に整理していきます。
Q5 薬に頼ると一生やめられませんか
A 多くのケースで、状態が整えば減量や中止が可能です。睡眠薬や抗うつ薬は適切に使えば回復の助けになります。自己判断でやめず、主治医と計画的に進めましょう。
Q6 受診するほどではない気もします
A 受診は重症かどうかの判定のためでもあります。早い段階ほど、生活調整と短期の支援で立て直しやすいです。結果的に受診して何もなければ、それは良いニュースとなります。
医師からのメッセージ
定年後の落ち込みは、あなたが仕事に打ち込み、誰よりも真面目に一生懸命働いてきた証拠でもあります。自分が悪いのではなく、仕事だけで自分を支えてきた構造が、退職することで誰しも揺らぐのです。 眠れない、気力が出ない、胸がざわつく。そうしたサインは、心が出している助けての合図です。早めに心療内科やカウンセリングにつながるほど、回復は現実的で、再発予防まで含めて道筋が立てやすくなります。 大丈夫です。持っていた1つの役割を失うことは、あなた自身の価値を失うことではありません。これからの時間を、あなたの体と心に合うペースで組み立て直していきましょう。
免責 本記事は一般的な医療情報であり、診断や治療の代替ではありません。症状が強い場合や緊急性がある場合は、医療機関や相談窓口にご相談ください。

