
役職定年のあとに気力が出なくなるのは、気持ちの切り替えができていないからではありません。
肩書きが外れた翌週から、会議に呼ばれなくなった。相談に来ていた部下が、年下の後任のところへ行くようになった。朝、席に着いても何をすればいいのか分からない時間がある——そんな状態が続いているなら、この記事はあなたのためのものです。
この記事では、この時期に何が起きているのか、そしてどこからが医療の関わる範囲なのかを、心療内科医の視点で整理します。
失われるのは、肩書きだけではありません
役職定年で変わるのは呼び名だけではなく、日々の中身のほうです。
- 決定権——判断を求められなくなり、報告を受ける側から外れます
- 役割——一日の予定を埋めていた会議や面談が、まとめて消えます
- 関係——相談に来ていた人の流れが変わり、話しかけられる回数が減ります
- 収入——生活設計そのものを組み直す必要が出ることがあります
- 見られ方——同じ場所にいるのに、扱いが変わったと感じる場面が増えます
ここが重要なのですが、これらは一つずつではなく、同じ月に一斉に起こります。大きな変化が重なった時期に不調が出るのは、心が弱いからではありません。
「切り替えればいい」で済まない理由
長く働いてきた人ほど、仕事上の役割は自己像の一部になっています。それは執着ではなく、時間をかけて築かれた事実です。
しかも、この変化には準備期間がほとんどありません。定年退職なら数年かけて心構えができますが、役職定年は働き続けながら、同じ職場で、立場だけが変わるという形をとります。環境が変わらないぶん、比較の材料が毎日目の前にあります。
周囲は「まだ働けるのだから」と言います。悪気はありませんが、その言葉は喪失を打ち消しません。成果を出してきた人ほど感じる空虚さと同じ構造がここにもあります。

うつ状態との見分け
この時期の落ち込みは自然な範囲のこともあれば、そうでないこともあります。目安を挙げます。
| 役割の変化への反応 | うつ状態が始まっている場合 | |
|---|---|---|
| 気分 | 寂しさや虚しさが中心。楽しめる時間はある | 一日中沈み、何をしても楽しめない |
| 体 | 大きな変化はないことが多い | 不眠・食欲低下・体重減少がある |
| 時間帯 | 職場にいるときに強い | 朝がいちばんつらい。休日も変わらない |
| 自分について | 「必要とされていない気がする」 | 「自分には価値がない」 |
| お酒 | 変わらない | 量や回数が増えている |
右側に近いと感じたら、働き方の問題として考える前に受診してください。うつ状態のときは、これまでの仕事人生そのものが無価値に見えるという形で症状が出ます。
セルフチェック
ここ数か月を振り返って、当てはまるものを数えてみてください。診断ではなく、いまの状態を言葉にするための目安です。
- 出社しても、何をすればよいのか分からない時間がある
- 後任や年下の上司のふるまいが、必要以上に気になる
- 同期や元部下の近況を、避けて聞かないようにしている
- 以前は引き受けていた仕事を、頼まれなくなった
- 家族に、いまの状況をほとんど話していない
- 夕方以降のお酒の量が増えた
- あと数年をどう過ごすのかを考えると、気が重くなる
- 眠りが浅く、朝早く目が覚める
3つ以下なら、この時期によくある揺れの範囲です。5つ以上あり、眠れない・お酒が増えているなら、一度ご相談ください。
立て直していくための考え方
- 比較の材料を減らす——同期や後任の動きを追う時間を、意識的に短くします
- 肩書き以外の軸を、小さく作る——社外の役割、資格、地域の活動など、評価者が変わる場所を一つ持つと負荷が分散します
- いまの立場でしかできないことを探す——決定権はなくても、経験を渡す役割は残ります。ただし求められていない助言は届きにくいので、聞かれたときに答える形が現実的です
- 家庭に持ち込む前に、外で言葉にする——不機嫌として家庭に出ると、配偶者との関係まで悪化しやすくなります
- 大きな決断は、体調を戻してから——退職や独立は、消耗しきった状態で決めないほうが選択肢が残ります
「まだ働けるのだから」と自分に言い聞かせて済ませないでください。喪失を認めることは、負けではありません。
会社・人事のご担当者へ
役職定年は制度上の変更ですが、受け取る側にとっては役割の喪失です。運用によって、その後の数年の働き方が大きく変わります。
- 肩書きが外れたあとの役割を、事前に具体的に決めておく
- 後任と本人の関係を、当事者任せにしない
- 面談の機会を、制度変更の直後だけでなく数か月後にも設ける
- 不調のサイン(欠勤の増加、飲酒、意欲低下)が出た場合の相談先を用意しておく
外部の医師による面談や、従業員の方の受診についてのご相談は法人の方へのページをご覧ください。
心療内科でできること
- いまの状態がうつ状態や燃え尽きに当たるのかを整理する
- 眠れない・お酒が増えているといった、生活面の立て直しを先に行う
- 職場で誰にも話していない内容を、評価されない場所で言葉にする(心理療法を用いることがあります)
- 必要な場合は、休養について診断書を含めて検討する
- これから数年の働き方について、現実的な選択肢を一緒に考える
当院では医師と心理セラピストが連携して進めます。生き方の答えを医師が決めることはありません。ただ、決めるための体力を戻すお手伝いはできます。
受診の目安
- 気分の落ち込みが2週間以上、ほぼ一日中続いている
- 眠れない・食べられない・体重が落ちた
- お酒の量や回数が増えている
- 出社そのものが難しくなってきた
- 消えてしまいたいという気持ちが浮かぶことがある
最後の項目に当てはまる場合は、期間に関係なく早めにご相談ください。
よくあるご相談例
外来では、次のようなご相談をよくお聞きします。いずれも特定の方のお話ではなく、多く寄せられる悩みを一般化したものです。
- 肩書きが外れてから出社の意味が分からなくなり、誰にも言えないまま続けている
- 年下の上司に指示される場面で、頭では納得しているのに気持ちが追いつかない
- 家では平気なふりをしているが、夕方から飲む量が増えた
- あと数年をどう過ごすか決められず、退職を考えては思いとどまっている
よくある質問
こんなことで受診してよいのでしょうか。
はい。眠れない、お酒が増えたといった変化が出ているなら、それだけで十分に相談していい状態です。原因が仕事の制度にあるかどうかは、受診の条件ではありません。
会社に知られませんか?
ご本人の同意なく、受診の事実や内容が職場に伝わることはありません。会社へ提出する書類が必要な場合も、記載内容は事前にご相談のうえで決めます。
転職や早期退職を考えています。
選択肢として問題ありません。ただし眠れていない状態での決断は、後悔につながりやすいことが知られています。まず体調を戻し、それから考えても遅くありません。判断は逃げませんが、体力は戻るのに時間がかかります。
妻に相談したほうがよいでしょうか。
話せるなら有効です。ただ、収入や生活設計に関わるぶん、率直に話しにくいことがあります。利害のない場所で一度言葉にしてから、家族に話すという順番でも構いません。
参考文献
医師からのメッセージ
「制度で決まっていることなのに、こんなに堪えている自分は情けない」——そう言って来られる方がいます。けれど、長く積み上げてきたものほど、外れたときの落差は大きくなります。堪えているのは、それだけ真剣に働いてこられた証でもあります。
この時期の揺れは、多くの場合これからの働き方を組み直すための作業です。ただ、眠れないほど消耗しているなら、その作業は一度中断してかまいません。職場で言えないことを話す場所として使っていただいて結構ですので、気になった時点でご相談ください。
この記事の監修
赤坂心療内科クリニック 院長
宮本 せら紀(みやもと せらき)
医学博士・心療内科専門医・認定内科医・日本医師会認定産業医
日本大学医学部卒業。東京大学医学部附属病院にて臨床研修。東京大学大学院にて医学博士号取得(ストレス防御・心身医学)。日本心身医学会・日本心療内科学会ほか所属。

